超人ザオタル(58)私の道
道で会った瞑想者はアムシャだったのだろう。
私の瞑想の中で会ったことがあると言っていた。
その後を追ったことも、結果的に私を草原へと導いたのだ。
そこで時間はかかったが、気長に待っていてくれた。
私は不運にも岩山から落ちたが、それもアルマティに会うために必要だった。
それはタロマティに会うためでもある。
ふたりに道を説き瞑想を教えることで私自身も成熟したのだ。
思い返せば、ふたりはまるで以前の私の思考のようでもあった。
本当の自分を肯定して受け入れたいと思っている自分。
それを否定して、もっと現実的に生きようとする自分。
その葛藤があの家では起こっていた。
いや、それは私の中で起こっていたことだ。
それを客観的に眺めることで、私の確信を高めてくれた。
もちろん、あの世界ではふたりは現実的な人物だ。
だが、心の奥底では存在でつながっていて、ひとりの存在なのだ。
この世界での現れとして、それはそう起こる必要があった。
この世界のことは分かることもあるし分からなこともある。
それは私がザオタルという身に委ねられているからだ。
世界のことで分からないことがあっても問題ではない。
私は知るべきことをすでに知ったからだ。
さて、そのアルマティとタロマティのふたりだが、あれからも瞑想を続けている。
ふたりにはふたりの道がある。
私はそれを後押しできればと本当の自分についての話をしてきた。
だが、もう必要ないと最近思えてきた。
その理解は十分に深まってきたと思える。
あとは自分自身で道を切り開いて行けるだろう。
ただ、道というものは一筋縄ではいかないところもある。
そういうときでも、きっとアムシャのような存在が導いてくれるはずだ。
いま私は存在がどのようなものかを深く理解している。
すべてが私であるという真実。
ふたりに限らず、いまもどこかで道で迷っている誰かさえ私なのだ。
私はその誰かの化身でもある。
それに対して何ができるのかは分からない。
私が知ったことを言葉にしても、すぐに理解されるとも限らない。
だが、何もしないわけにもいかないのだ。
それが普遍的な智慧の本性としての世界への求めでもある。
そう、存在から世界に広がったものは、また存在に戻るのだ。
それがこの宇宙の本質的な流れでもある。
世界には時間と空間が無限にある。
だが、存在はその無限さえも包み込んでいる。
世界の中で起こることは何にしろ私なのだ。
そしてザオタルにはそれを伝えるための旅をさせる。
真実を世界に行き渡らせ、この世界を真実へと戻すために。
ザオタルは私の化身として、傷つきながら泥臭くこの世界を行く。
ザオタルはそこで何が起こるか知らない。
たいていの場合、世界から歓迎されることもないだろう。
それでもその真実が揺らぐことはない。
存在にとっては歓迎されるかされないかは問題ではないのだ。
強固な個人的エゴの固定概念がそこで待っている。
それは自分の中にあっても苦戦したのだ。
世界という虚ろな塊の中ではなおさらそうなるだろう。
それでも存在の真実は真実として確かに変わりなくあるのだ。
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