超人ザオタル(111)静寂と真我

「そういうことなのですね。

なんとなく、自分のしていることの全体像が見えてきました。

…、この場所で少し瞑想をしていってもいいでしょうか、ザオタルさま」

シュマは何かを捉えているようだった。


それが何かをすぐにでも確かめたいのだろう。

「もちろん、構いません。

私に気遣いなく、どうぞ瞑想してください」

シュマは、ありがとうございますと一礼して目を閉じた。


あたりに静寂が戻った。

瞑想で静寂になろうとしても静寂にはならない。

真我になるとき、自ずと静寂になる。

そこは静寂以外になることができない場所。


静寂になれば真我になれるわけではない。

それは静寂という環境が与えられただけだ。

次の瞬間に思考へと焦点は飛んでいく。

静寂自体が真我というわけではないのだ。


真我は静寂だが、静寂が真我というわけではない。

真の静寂を得るためには、真我になる必要がある。

ただ、真我にとっては静寂かどうかは問題ではない。

静寂である必要があるとも思っていない。


静寂が本性であるなら、世界がどれだけ騒がしくても、

それが決して破られることはないのだ。

静寂、無心、空(くう)は真我の周りのことだ。

それらは自我から見た真我の印象に過ぎない。


そういった状態を瞑想に求めても真我にはならない。

真我の周りの環境い漂って、真我になれずにいるだけだ。

真我であれば、静寂は求めずとも与えられる。

そして真我にとっては、そうでなくても何の問題もないのだ。


真の自分は世界の概念を超えた存在だ。

世界の概念を当てはめて、それを論理的に構成しても、

真の自分にはならない。

ここが難しいところだ。


真の自分であるなら、そこに何の言葉も説明も必要はない。

概念でどれだけ正確に描写できたとしても意味がない。

直接、瞑想でそれを感じ取ることで、

それは完全に理解できるものになるのだ。


しばらくしてから、シュマが大きく息をした。

瞑想から戻ってきたようだ。

「真の自分とは奥深いものですね、ザオタルさま」

シュマは目を開けると、そう感慨深く言った。


「姿形はなくとも、確かにそれは存在しているのです。

存在していないとは決して言えない。

そしてそれが真の自分としか言いようがない。

何度確かめても、それが『私』なのです。


いままで『私』だと思っていたものは何だったのか。

それ以外に『私』といえる存在などないというのに。

それは私の中心であり、そこから消えることがない。

何の変化もなく、微塵も動くことがない。


空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想を実践する中で、いままで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そうして「私は誰か」の答えを見つけ、そこを自分の拠り所にするとき、新しい視点で人生を見つめることができるようになります。