超人ザオタル(117)超人になる
自我がはじめに感じることは、存在は現実だということだ。
それは決して妄想や空想の産物ではない。
そこにいつも存在していて、消えることがない。
身体や心がどのような状態であれ、それに影響を受けて変わることがない。
純粋に力強く存在している。
そして気づくことは、それが「私」だということだ。
つまり、「私」はひとりしかいないため、自我は「私」ではないということになる。
そのタイミングで、自我は世界へと戻される。
自我とは世界のことなのだ。
だから、自我が「私」だと思っているときには、世界の活動に縛られていた。
自我を世界に戻し、存在を「私」とすることは、
現実の配置を認め、本来の姿を取り戻すことになる。
もちろん、そう理解するまでに、
自我は様々な手を使って現実に抵抗してくるだろう。
そして、ほとんどの場合、その抵抗に屈するのだ。
扉は閉じられ、封印され、真実の「私」はなかったことにされる。
自我は聖人たちの教えを聞いて感動し、
超自然的な力を賛美し、その名を叫んで称えたいのだ。
そうすれば、確かに心は高揚し、至福に満たされるだろう。
しかし、それで失うものはあまりにも大きすぎる。
自我は繰り返される世界の潮流の中で目を回し、
ついにはいったいどこに向かって進めばいいかも分からなくなる。
自分が存在であると認めることと、
幸せに生きることはまったく関係がない。
これは自我が認めたくないことのひとつだ。
自分の真実を知るためには、これを認める覚悟が必要になる。
その真実を知っても幸せにはならず、誰からも評価されず、
何の利益も得られないのだ。
それでも自分の真実を知りたいかどうか。
自分の限りある人生の時間をつかって、それを理解しようとするかどうか。
その覚悟があり、真実への熱意があるのなら、
それはもう、真実をその手に握っているのと同じだ。
アフラの波動はすでに世界に行き渡っている。
誰もが自分の真実に目覚める準備はできている。
あとはその覚悟という準備を自我が持てるかどうかにかかっている。
それは賢く生きる理屈ではなく、理由なき狂気のようなものだ。
草原に旅立った者たちは、その狂気を持ち合わせている。
その者たちは草原への道を歩み、草原を旅し、
瞑想して心の扉を開き、自分と向き合い、それとひとつになるのだ。
そして感じるだろう、「私」がずっとここにいたことを。
その時点で、そこまでの長く過酷な道のりの記憶さえ、消えてしまうだろう。
世界に戻る自我の痕跡が完全に消え去るとき、
自我としての「私」という幻想は失われ、存在としての「私」となる。
存在としての「私」は、もはや人間ではない。
人を超えた存在、つまり超人になるのだ。
この超人は卓越した何かの能力があるわけではない。
むしろ、この世界では何もできないと言っていい。
しかし、この超人がいなければ、世界は存在できないのだ。
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