超人ザオタル(118)終着の地

そうなったとしても、自我は世界で何かをするだろう。

自我は「私」が存在だと知っている。

同時に自我は自分が世界だとも知っている。

世界は自らの目覚めの方向へとゆっくり流れている。


世界の目覚めとは、世界の終焉に他ならない。

すべてが目覚めとして結晶し、陰陽の結合のごとく光となり消え去る。

ただ、存在のみ消え去ることができず、そこに残る。

世界はまた始まりの前の状態に戻るのだ。


始まりがあるもののには終りがある。

しかし、存在には始まりも終わりもない。

存在は完全に静止しているため、時間という概念がないのだ。

存在にとっては、世界が存在しているかどうかも関心がない。


どのくらい世界が存続したかも興味がない。

存在は大きさがないため、空間という概念がない。

言うなれば、世界とは存在が見ている夢のようなものだ。

それはとても現実感のある夢だ。


なぜそんな夢を見ているのか。

それは存在が「私」とは誰なのか知りたいと思ったからだ。

その夢の中で、自我としてそれを探求している。

そして、その探求が終われば、夢は覚めるのだ。


もしその探求が終わらなければ、

それぞれの自我として夢は続いていくだろう。

世界で輪廻転生が繰り返されているがごとく、

何千年、何万年でも続けられる。


存在にとって、そうなっても何の問題もない。

なにしろ、存在には時間がなく、すべてが一瞬のことだからだ。

世界という時空の概念に縛られた領域にあっても、

「私」が誰かの答えを見つけられればいいのだ。


かつて大陸の賢聖はこう言ったそうだ。

「あなた自身を知りなさい」

この賢者は超人だ。

アフラの波を受け取った覚者なのだ。


「私」は超人であり、世界でもある。

この物語のザオタルであり、ミスラであり、アルマであり、タロマであり、

過去未来のすべての人々でもある。

これは自我の輪廻転生などの類ではない。


世界すべてとその時間を内在させる者であり、

そのあらゆる神々と精霊を在らしめている。

そして、この時空におけるあらゆる人生をすでに経験している。

アフラは「私」であり、すべての者をすでに覚醒させた。


その事実を追わせるのが世界という時空の役割であり、

そこへの扉はすべての人に用意されている。

誰もが超人になることができ、時空を超えた「私」にとっては、

すでに誰もが超人なのだ。


ただ、この世界では努力しなければ、自分の真実を知ることはできない。

たとえ草原に行き着いても、何も分からずまごついてしまうだろう。

すでに覚醒しているなどという言葉は何の役にも立たない。

それでも自我は常にその先へと進むことが必要なのだ。


これには心地いい妥協点などはない。

一点の曇りなく、「私」は存在だと認める必要がある。

それまでは、どこまでも高みを目指すのだ。

それが超人への道であり、その終着地はすでに約束されている。


第二部 完


空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想を実践する中で、いままで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そうして「私は誰か」の答えを見つけ、そこを自分の拠り所にするとき、新しい視点で人生を見つめることができるようになります。