瞑想の道(3)真我の尻尾
悟るためには、まず瞑想で悟る必要がある。それから、その悟りを細やかに検証していくのだ。これが本来の悟りの道だ。悟りが何か分からずに、ただ闇雲に瞑想を続けても、悟りに行き着くことは難しい。多くの場合、これは悟りではないという事例だけが積み上がっていくだけだろう。悟りとは、自分の本質を明確に知るということだ。「私は誰か」の答えをまず手に入れることからはじめ、それからそれが本当に「私」なのかを検証していく。
そうして真我を探求することは、多くの人にとって奇妙に感じられるかもしれない。いまでも自分でいるのに、なぜそこからまた自分を探求しなければならないのかと思うのだ。しかし、自分とは誰なのかと心の中を探ってみても、実際にその自分を見つけることはできない。見つからないということは、自分を知らないということだ。ただ単にこの世界で生きているから、自分がそこにいるものだと思い込んでいるだけなのだ。そう確かめると、自分がそこにいることは明白なのだが、まるで実体がない透明な存在にも感じられるだろう。
それに、はたして自分とは誰かを明白にすることに意味はあるのだろうかと疑問に思うかもしれない。実際に、真我を明らかにすることは、この世界では何の意味もない。それを知っても、何の恩恵もなく、誰からも評価されることはない。そうであるなら、貴重な人生の時間を使って、そんなことをする必要はあるのだろうかという疑念がわくだろう。それよりも、この人生でいかに楽しく幸せに生きることができるかを探求したほうがいいのではないかと考える。それは理解できる考えだ。何の意味もなく、恩恵もなく、評価もされないことに血道を上げるなど、ある意味、狂気じみたことだ。しかし、ときに人にはそれが起こる。
ただ、真我を求めて広大な世界と心の中をすべて調べまわることは困難なことになる。ある程度は的を絞らなければならない。これが真我だという当たりをつけられるのなら、その方向性は絞られる。これがまず初めに悟る必要があると言った意味だ。悟りの尻尾をつかんだら、それをゆっくりと手繰り寄せて、その本体に迫っていく。そのためにも、これが真我だという尻尾は間違わない方がいい。古来から伝わる真我のための瞑想法であれば、ほとんどの場合、その尻尾を間違うことはない。間違いない尻尾をつかんだのなら、それ自体がすでに悟りであり、それを理解するための道が開けたということになる。
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