瞑想の道(5)自我の抵抗
真我を悟ることは何かを得ることではない。どこかに到達することでも、特別な何者かになることでもない。それは元々の自分に気づくことだ。このことに自我は抵抗するだろう。自我は世界の物事同様に真我を飾り物にして、美しく気高い自分になりたいと思っているのだ。そうでないなら、真我を悟ることに意味はないとさえ言い切るだろう。自我は悟りに何らかの価値を見出したいのだ。そのため、真我は特別なエネルギーであり、運命を変える手段であり、恐れから解放され心安らぐ癒やしであってほしいと願う。そして、それを知った自我は世界から評価され尊敬を受けるべきだと期待するのだ。
残念ながら、真我を悟っても、この世界のことは何も変わらない。変わるのは自分が自我ではなく真我だと気づいているということだ。真我には何の動きもない。そこに救済も善良な意図もない。美しく流れるエネルギーでもなければ、特別な能力もなく、心の苦悩を取り去る力さえない。つまり、真我はこの世界や自我の状況に何の関知もしていないのだ。そうであるなら、自我は真我を無意味で無力なものだと決めつけて、それを無視し排除しようとするだろう。それを軽視して茶化し、くだらないことだと蔑みさえする。
それでも何かを期待する自我は、真我を信仰の対象にして、強引にでも救済と援助を願うかもしれない。恩寵と庇護を得たいと祈り、そんな自分に陶酔さえする。当然のことながら、真我はそうして神格化され祭り上げられても何もしない。自我はそんな真我を嘆くかもしれないが、それはまだ自分の祈りや信仰が足りないせいだと思い直す。そんな自我の思いを無下に非難することはできない。それは真我を理解するための過程のひとつなのだ。自我は何が真実なのかを現実的に学ぶ必要がある。自分が真我だと言葉だけで鵜呑みにすることは、かえって危険なことにもなる。そうして失望と失敗を繰り返しながら、真実を手繰り寄せることが、時間はかかるかもしれないが、最善の道なのだ。
多くの人々は世界をより良い場所にしたいと願い、それに向かって努力している。それはいいことだが、そうしている自分は誰なのか知らなければ、すべては未完成で、何かしら欠落した物事にしかならないだろう。世界は動いて変化しているという基本的な性質があるため、創造と破壊、成功と失敗を繰り返すようになっている。もし自分が真我だと悟れば、すべては完成されていて、たとえ苦楽の波を繰り返す世界にあっても、それで完全だと分かる。真我は変化することなく、そういた世界の変動に影響されることがない。そうであるなら、世界のどんな変化をも受け入れることができる。真我にとって、それを受け入れても何の問題も起こらないのだ。
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