瞑想の道(10)真我の領域
世界の動きは予測できず、制御することもできない。そのため、自我は世界に苦しめられることになる。世界は自我の願いを叶えることなく、思い通りに事を運ぶことにも障害をもたらす。自我には様々な問題が降りかかり、その対応で心身は消耗していく。自我は何度も希望を失い、自分の存在に虚しさを感じる。そんな自我にとって、真我を悟ることなど何の意味もないと思うだろう。自我にとっては、願いが叶い、物事が問題なく円滑に進んでいくことが大切なのだ。そうなれば、自我は幸せであり、人生は希望に満ちていていると感じられるのだ。そうなることが自我の望みであり、苦しみながらもそうなるための方法を世界で模索している。
世界には望みを叶える方法が散りばめられていて、自我は夢中になってそれを集めている。そして、自我は望みを叶え、満たされるだろう。しかし、そうなったとしても、常に動いているという世界の本質によって、満たされる時間はあっけなく過ぎ去る。自我はより長くより質の高い満たされる時間を求める。ただ、それを実現できたとしても、それは長い時間であり、質が高いだけであって、必ず色褪せて失われる。そこに残るのは、世界は思い通りにならないという苦しみであり、満たされた時間の記憶の空虚さだ。自我は世界に嫌われていると感じて、そこで逆風を感じながら生きることに意味を見いだせなくなる。
真我は世界の動きから影響を受けることがない。その代わり、世界に対しても何の影響も与えない。つまり、真我を実現しても、世界は相変わらず自我を翻弄しながら時間を押し進めていく。自我が真我探求に意味を見いだせないのはこのためだ。自我は気持ちのいい満たされた状態でいたいのだ。このままならない世界でそうなることを望んでいる。真我の探求者でさえ、自我のこの想いに飲み込まれてしまう。そうして真我実現よりも自我の幸福が優先されていくのだ。真我のことは脇において、まず自我の問題に取り組み、そこに満足できる解決点を探そうとする。しかし、自我は「私」ではない。真我が「私」なのだ。世界の問題は「私」の問題ではなく、世界の問題だ。それは世界が解決するだろう。自我の問題とは、自分が真我だと知らないことだ。実際に自我が取り組むべき優先課題はこのことなのだ。
自分が真我だと知っても、世界を予測することも、制御することもできない。しかし、世界がどうあろうとも、「私」が真我であることは揺るぎない事実になる。これだけは世界がどう頑張っても変えることができない。あれだけの力を持つ世界でさえ、真我をなにか別のものに変えたり、そこから消し去ることもできない。世界は真我に手も足も出ないのだ。自我は世界に属していて、その変化に翻弄され続けるだろう。ただ、その自我の中心に真我への扉がある。その扉の向こうは、世界が手を出せない領域だ。そこが「私」であるなら、自我が世界で翻弄されることの何が問題になるというのだろうか。
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