超人ザオタル(115)覚醒の波
アフラが真実の自分に目覚めたとき、すべての人々が目覚めた。
なぜなら、この世界には実のところひとりしかいないからだ。
しかし、いまの時点ですべての人が目覚めているわけではない。
すべての人が目覚めていないのは、時空という摩擦があるからだ。
加えて、人は個人、つまり自我を「私」だと誤認しているため、
目覚めへの抵抗はさらに強まっている。
大きな流れとしては、すべての人は真実へと向かっている。
だが、そこにどのくらいの抵抗があるのかは未知数だ。
アフラの目覚めがすべての人々に波及するために、
どれだけの時間を要するかは分からない。
もし、真実に目覚めたいなら、いまの人々には勇気と努力が必要だ。
それは、その扉を開ける勇気、真の「私」を認める努力のことだ。
心の奥の扉を開けたとき、そこで真の「私」を目の当たりにするだろう。
しかし、それだけで目覚めが完成するわけではない。
ほとんどの場合、すぐにその扉を閉めてしまうのだ。
そして考える。
あれがほんとうに真の「私」なのだろうかと。
どうすれば、あれが「私」だと認めることができるだろうか。
はじめにおいては、それが「私」だと認めることは難しい。
なにしろ、それには姿かたちがないのだ。
姿かたちがないものを「私」として認めてもいいのだろうか。
それはとんでもない間違いなのではないのかと不安になる。
この世界では身体と心があり、それが自分だと明確に認められる。
それは物質的にもエネルギー的にもはっきりしているのだ。
しかし、あの扉の向こうの「私」には身体も心もない。
何の動きもなく、何の性質も、個性もない。
世界での自分に慣れた身にとっては、それがとても異質に感じられる。
その「私」に対する違和感が解けなければ、また世界へと戻っていくだろう。
やはり世界の現実感のほうが安心できると思うのだ。
それでも、姿かたちのないそれが「私」ではないかと感じる者もいるだろう。
そして、それが真の「私」かどうかを確かめはじめる。
アフラの波が彼の人を捕まえて、目覚めへの道へと歩ませる。
この世界で培われた自我は強い力を持っている。
その最たるものは、自我が「私」であるという認識だ。
この世界で人が経験することの基盤はその認識なのだ。
それがなければ、すべてが崩壊するとさえ感じるだろう。
そのため、自我は「私」の座を簡単に明け渡したりはしない。
それを奪おうとする者には命がけで抵抗もする。
扉の向こうには真の「私」がいる。
自我は自然とそれにも抵抗するだろう。
それが「私」であることの不利な点を見つけて、
それを遠ざけようとする。
真の「私」を軽視し、あざけり、そして無視する。
実のところ、その「私」はこの世界では無力だ。
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