瞑想の道(12)自我の成熟

 悟りという言葉を知っていても、それが何を意味するのか知っている人は少ない。悟りとは真理のことであり、その真理とは自分が真我であるということだ。そう言われても、ほとんどの人はピンとこないだろう。自分には縁のないことであり、他人事のように話を聞いて終わりになる。それよりも、この世界で何を楽しみとして、どのような人生を送るのかが最大の関心事だ。多くの人はできる限り楽しく、充実した人生を送るために、人間関係や財力を高めることに注目し、個人として評価され、力強い肉体を持ち、誇り高く生きることに価値をおく。そんな人にとって、悟りなどはまったく価値のないことであり、それについて考察する時間さえ惜しいと思うのだ。


 悟りの道にある人でさえ、その真理を探求するというよりは、求道者としての地位を求めている。激しい修行をして、高い地位の呼称を得て、人々から尊敬され、社会での自分の位置を定めることに満足する。そして何事にも動じない精神力を持ち、怒りを滅却していつも穏やかでいる自分を誇らしく思う。その姿を見た人々はあのような人物になりたいと願い、敬い、祈りを捧げる。真理というのは高潔な人物のことを指しているわけではない。もちろん、高潔な人物は尊敬に値する。だが、どのような人物になるかということと、悟りとはまったく関係がないのだ。あるがままに生きることや、苦難であれ幸福であれ何事も神の思し召しとして受け入れるという考え方でもない。それらは自我の形態の話だ。悟りとはその自我を超えていくことなのだ。


 悟りを求めるということが、自我の求めることと合致しないと気づいたとき、自我は真理の探求に興味を失うだろう。覚悟を決めて真我を探求しはじめた者でさえ、ほとんどがその道から遠ざかり、自我を幸せにする道へと戻っていく。自我を幸せにすることは楽しいことだ。この世界で結果として現れ、その結果を享受することができる、そこには達成感があり、気持ちのいいものだ。真我探求にはそのようなことが一切ない。世界から褒められることも、何かしらの贈り物さえもない。人々が真我探求から遠ざかるのは当然のことだ。さらに闇深いのは、真我探求を自我を磨くことにすり替えてしまうことだ。そうして高尚な自我になることが真我探求なのだと思い込む。


 真我探求の道は厳しい道だ。だが、自分が真我だと理解したとき、この世界のことをまったく新しい目で見ることができるようになるだろう。自我に対してはこのくらいのことしか言うことはできない。自我を説得するには、力不足な言葉であることは認めざるを得ない。それでも、この時空は真我に向けて進んでいる。いまは目先のことにしか気が向かないような自我であっても、いつかは真我を探求することになる。自我は長い時間をかけて精神的に成熟し、真我探求の準備を整えるのだ。これは一斉に起こることではない。先に成熟する自我もある。最初、そんな自我は少ないため孤独だろうし、理解されない寂しさがある。それでもその自我は真我を探求して、実際にそれを実現し、自分の真実を知ることになるだろう。いまはそのような時代なのだ。

空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想を実践する中で、いままで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そうして「私は誰か」の答えを見つけ、そこを自分の拠り所にするとき、新しい視点で人生を見つめることができるようになります。