瞑想の道(13)悟りの解釈
悟りという言葉は曖昧さを含んでいる。長く瞑想の道にある人でさえ、悟りについて上手く説明することができない。それが説明できなのなら、悟りへと人を導くことも容易ではなくなる。いったいどの方向を向いて修練をすればいいのかが分からないからだ。何もない無の状態や空意識を悟りだと思っている人がいるかもしれない。だが、それはまだ悟りではない。その状態を長く保ち、いわゆるサマディの経験があるとしても、それもまだ悟りではない。そこには誰がその無や空意識を観察しているのかという観点が欠落している。欠落している観点、つまりその観察者であることが悟りなのだ。
悟ることは不可能という論者がいる。悟りは神がかり過ぎて分からないため、人はそれを知ることなど到底できないとの考えだ。それは人知を超えた超自然的な現象であり、誰も理解できない永遠の謎なのだと説く。悟りはないという論者もいる。悟りに執着していては、その執着によって悟ることができなくなるため、方便として、その執着を捨てさせるためにそう教えることがあるかもしれない。その意味であればいい教えということになる。だが、本当に悟りはないと言っているのであれば、誰がそれを言っているのかが問題だ。もし悟った人が言っているのなら、この言葉を真に受ける必要はない。悟った人にとって、悟りとは終わったことであり、普通の状態として当たり前にあること。そこにはすでに悟りへの執着などない。いちいち悟っているかどうかなども問題にもしないだろう。つまり、その人にとっては悟りはないと言えてしまうのだ。
悟りはある。悟りは誰でも知ることができる現実なのだ。もし悟っていないのなら、それに執着し、不断の努力を積み重ねていく必要がある。聖者と言われる人は、誰でもそうして悟ってきたのだ。何の努力もなく自然に悟った状態になることは決してない。悟るために努力は必要ないと言う論者もいる。私たちはすでに悟っているのだから、努力して悟る必要はないという理論だ。だが、悟りは明確に自覚している必要がある。何の自覚もなく、悟っていると思い込むことは、ただそれらしく振る舞っているに過ぎない。そのようなまやかしを信じることは時間の無駄であり、いずれ何も知らないということに気づくだけだ。
悟りという言葉はとても扱いが難しい。それについて、様々な解釈が試みられている。だが、どれだけ優れた解釈でさえ、解釈に過ぎないのだ。それを自分の中で明確に知ることができれば、どのような解釈も必要なくなる。実際に悟りとは言葉ではない明らかな自分の現実なのだ。それそのものであるとき、悟りについての解釈など、なぜ必要になるのだろうか。だが、悟っている人は、そこに至る方法を明確に言葉で説明できなければならない。そこへの道を示すことができてこその悟りなのだ。それが曖昧に終始するようでは、その悟りは完全ではないということだ。それが完全であるためには、あらゆる疑念や否定に耐える必要がある。悟りはどんな言葉でも破壊されず、常に同じ状態で存在していなければならない。もし言葉によって悟りを否定されたとき、それが破壊されたり、消失してしまうのであれば、それは悟りではなかったということだ。
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